​にぐるまの30年

​ 安全で安心な暮らしをしたいと強く思ったのは、朝日新聞に掲載された「複合汚染」(有吉佐和子著1974~)に衝撃を受けたのが切っ掛けでした。それまで娘の体に湿疹が出たり、夫にも私にも頭にでき物がよく出て困っていたことの原因を知ることが出来たからでした。

 合成洗剤、便利に使っていた洗剤によって甚大な被害を受けていることを知って愕然としたのです。「安全な石けん」を求めて私は少ない情報を頼りに奔走しました。漸く見つけたのは、労働組合の集まる、「総評滋賀地評」でした。初めての労働組合に足を踏み入れた私に、対応してくれたのは市民活動家の女性でした。「粉石けん」を手に入れた私は地道な活動をするグループに興味を持ったのです。石けんを使い始めると家族の体に変化が出ました。痒みの絶えなかった湿疹が消え、石けんシャンプーに変えた頭皮からでき物が消え、快適な暮らしを手に入れることが出来たのです。その後滋賀地評に出入りすることが多くなって、「合成洗剤の学習会」などに誘われるうちに、合成洗剤追放運動に出会いました。

 琵琶湖の富栄養化はリン酸塩をふくむ合成洗剤の排水流入によって藻が増殖し気温が上がる季節になると「赤潮」が南湖を覆い水生生物にとっての環境が悪化したのです。奇形魚が増えたり、琵琶湖特産の鮎や鮒寿司の原料になるニゴロ鮒が産卵出来なくなるなど、多岐に亘る環境破壊が起こっていました。県は婦人団体を召集し「合成洗剤の環境に及ぼす問題点」を学習し1979年「琵琶湖富栄養化防止条例」が制定されたのですが、この会議に於ける啓発委員として県内の自治会で学習会を開き、チッソ・リンだけではなく、主たる成分である合成界面活性剤の毒性についての啓発を伝えるようにしました。県の意図とは別に。県は企業に影響が少ないよう、「リン酸塩」の規制に留め、骨抜きの条例が制定されたのです。その後、「合成洗剤追放連絡会」全国集会が盛んに開催され、合成洗剤から石けんへの転換運動が盛んになりました。私は連絡会のメンバーとして合成洗剤の持つ毒性について啓発活動に関わり、安全な石けん類の共同購入を仲間と始めました。「グループびわこ」と名付けたこのグループには百人ほどの会員が集まり、石けんだけでなく「水俣の甘夏」「須田さんの林檎」「山中さんのお茶」「無添加ハム」「自然食品」などの共同購入が始まったのでした。月に二回班ごとに注文品をまとめ、入荷の日に班の世話役が集まって仕分けをして持ち帰る。甘夏や林檎は一度に百箱を超えたので、配送をするようになりました。

 「美味しくて安全性を求める」小さいグループは活気に満ちていました。八年続いたグループは、当時「守山市地域婦人会」会長の役職と兼ねて多忙であった私が、ストレスから倒れた事で継続が困難となったのです。しかし八年間の時間が作り上げたネットワークを捨て去ることは到底受け入れられなかったのです。ところがひょんな事から、空き店舗でお店をしたらどうなのと声を掛けてくれた遠縁の人がいて、私を清水の舞台から飛び降りさせてくれたのでした。平成三年五月、床面積五坪の店がオープンしたのです。右も左も分からない、私と娘の新しいスタートでした。「にぐるま」と名付けたのは私の一存でした。もっとお洒落なネーミングを考えていた娘の意見を聞くこともなく。

 「にぐるま」と名付けた意味をよく聞かれますが、グループびわこを支えてくれた生産者との視える関係を大切にしたい、マチ(消費者)とムラ(生産者)を結び合う「要」としての存在、人の力で引っ張る車のイメージ(環境を守りたい)そういった思いを(にぐるま)に積み込んでムラの安全食材をマチの消費者に届けたいと思っていたとき、夢で映画「荷車の唄」を見たのです。漠然としたイメージがこの時鮮明に浮かびました。そして(にぐるま)は生まれました。「テイスティ&セーフティにぐるま」とシャッターに大きく書かれた看板はまるで夢の如くでした。私と娘の店が現実となったのです。娘が幼い頃「大きくなったらお母ちゃんとケーキ屋さんをしたい」と言っていた夢が叶ったのです。ケーキ屋さんではなかったけれど、小さなお店のオープンでした。

 グループ時代の生産者との関係も継続でき、ネットワークは着実に増えていきました。

有機焙煎コーヒー、凝固剤を使わない豆腐、天然酵母のパン、有機野菜、珈琲豆が入っていた大きな樽を珈琲屋さんからいただき、籠に入れた林檎や蜜柑、季節の野菜が樽の上に並んで小さい店は賑わっていきました。情報を届ける工夫もして、「にぐるま通信」の発行やセール案内の葉書も出して、固定客は確実に増えていったのです。三年経って経営もそこそこ安定したころ、大家さんから突然の退去の依頼がありました。銭湯を経営していた大家さんが廃業されることになり、借りていた店舗の一部を土地の所有者に返す取り決めをされていたのでした。三ヶ月以内に退去して下さいとの通告に新しい店舗を探すのに必死でした。商店街の空き店舗は私の条件には合わず、家賃がネックになったのです。探し始めて何日か経った頃、商店街の外れにあった鶏肉店が閉店して、空いていることが分かり急遽入居手続きに入りました。ところが鶏肉店であったために、天井も壁も床も油まみれでとても入居できるような環境ではなかったのです。改装費を捻出することが直近の問題です。金融機関に掛け合い、四百万円の設備費を借り入れることができましたので、急ぎ改装にかかりました。この店舗は七坪の床面積で少し広くなったのですが、冷蔵庫、冷凍庫の置き場所が歪になり、使い勝手の悪い店になってしまいました。四店舗が入居するこのビルにはトイレも一ヶ所しかなくて、とても不便な建物でした。ここで四年間辛抱し、もう少し広い店舗を探していたときに、アルツハイマーで入院していた夫が亡くなりました。葬儀を済ませて忌明けを待たずに不動産屋から物件の案内が在り、「喪中であることは知っていますが急いで契約をしないと借りたい人がいますから」と急かされてしまいました。10月に夫を亡くし12月には移転をするというスピードで15坪の床面積、二階にもフリースペースのあるお洒落な店舗を借りることができたのでした。最初が200万円、二度目が400万円、三度目は1500万円の借入金が私の肩にのしかかってきたのです。元を取れないうちに膨らんだ借金を返しながら、それでもよい商品に恵まれて伸びてゆく売上高に満足感を持っていたのです。新しい店は表に面して硝子張りでウインドーショッピングを楽しむ人々も立ち寄ってくれたりして、駅前通りで一番のお洒落な店として評判にもなりました。二階のスペースには椅子とテーブルを置き、講師を招いて講習会を開いたり、書道教室や陶芸教室も開き、お客様の手作り作品の展示などとても活気のある展開をしていました。手作りの総菜を500円で提供するコーナーを作ったり、奥に仕切った2部屋にはエステルーム、事務室もありました。台所ではコロッケやおからの煮物、おでんもきんぴら牛蒡も毎日日替わりのお総菜を作って売れ行きは上々でした。又、「健康相談コーナー」も毎月開催しておりました。健康管理士から直接アドバイスを受けられるこの企画は、にぐるまの目玉になっていました。

 夫を送って半年、父が94歳で亡くなりました。一人になった私は、仕事に打ち込み健康志向の波に乗って活気のある店として成長していたのです。当時、空き店舗を借りて、足ツボ療法をしていたのですが、その治療師から浄水器の取扱をしませんか?と話が持ち上がり、会場を借りて浄水器の講習会をしました。講師を招きお客様においでいただいての講習会は盛況でした。浄水器の特徴や他の浄水器との違いなどについて学び、浄水器の売れ行きは上々でした。又、健康食品の代理店を受けるために仕入れ代価の借り入れに銀行との折衝、何も知らずに飛び込んだ商売の世界は私を成長させ、度量をつける舞台になって行ったのです。浄水器をめぐっては紹介者に支払金を詐取されるという、事件にも遭いました。売上金を見事に持ち逃げされたのです。

 商店街では季節毎のイベントが多く、当時駅前に大型スーパーが二店出店して、小売店には対抗できる予算も人手も不足していました。シャッターが閉まった空き店舗が増え、借り手があっても一年、二年で撤退していきました。ネックになったのは駐車場がないことです。大型店は充実した駐車スペースがあり、車時代のお客様は駐車場のない店には来てくれません。駐車違反でチケットを切られると二度と来て頂けなくなります。家賃と駐車場代、商店街会費、街路灯負担金、イベントの度に特別会費、経費が嵩み経営が安定しなくなり、商売の難しさを知る日々でした。売上げと仕入れと経費を差し引いて利益が残ることはありませんでした。その頃、お客様の紹介で知り合った、整体の先生にぎっくり腰の治療をしていただくことになり、治療に通うようになったのです。腕のよい治療師でした。そのうち「にぐるま」に顔を出すようになりました。お総菜と水を毎日届けて欲しいと頼まれ、帰宅途中に届けることになったのです。「奥さんはお勤めですか?」どうやら男所帯の匂いがした殺風景な玄関につい聞いてしまいました。10年前に離婚して二人の息子と暮らしているそう。何回目かの治療に行ったおり、突然プロポーズされて面食らったのですが、「大切にする、幸せにする」と一生懸命に言っている先生をみて、ほろりと母性本能が出てしまったのです。それよりも経営に困窮していた私の打算が結婚に向かわせたのでした。56歳と57歳、熟年同士の同居生活です。平成15年の暮れ、広かった我が家に治療所を移し、私たちは共に暮らし始めました。店と家を行き来する忙しい日々が始まりました。

 店と治療所を一緒にしようと考えた末に、自宅と兼用の店舗と治療所を建てることになったのです。平成16年2月、念願の店舗付き住宅がオープンし、駐車場も広々とした景色のよい場所が私たちの終の棲家として与えられたのです。木の香りが嬉しい新しい家と職場は、心地よいスタートとなりました。

平成18年、思いがけない出会いが私の仕事の転機となりました。お茶の水クリニックで健康診断を受けたのが切っ掛けで、枇杷葉温圧に出会いました。自然医学で有名な森下敬一博士から勧められたのが現在、私のライフワークとなっています。血液が専門の森下先生は私の血液をみて「僕ね、40年クリニックをやっていますが、貴女みたいな健康な血液は初めて診たよ」と言って下さったあと、「現代人は自律神経のバランスが狂いやすいので、枇杷のお灸をするといいですよ」この後、枇杷葉温圧の濱田久美子先生から、その理論、技術を学ぶ機会をいただき、指導員としての免許をいただいたのです。60歳のときでした。

この15年間には多くの重篤な病気の方々と出会いました。口コミで伝え聞いて来られる方は、とても多くなかでも癌を患う人達で予約は混み合っていました。現代医学で痛めつけられた人達を多く見てきました。医療の無力と医療に縋る人達、「癌は治る病気」なのに治らないと思い込んでいる人達と向き合い、「安心」を提供出来る自然療法に取り組んできました。健康であることこそがすべてに優先します。その事を伝える努力を怠らず、1時間の温灸時間は言葉の伝えと共にあるのです。時代が目まぐるしく変わり食の形態も変わりました。作ることをしなくても食べ物はどこでも手に入ります。野菜は皮を剥いてあったりサラダ用にカットしてありますね。何時までも変色しない生野菜「次亜塩素酸ナトリウム」で漂白されていますから、とても危険ですね。便利の裏には危険な仕組みが施されています。

 そういった危険な食品を避けて安心な食材を提供する店として、にくるまは存在しています。「少子化」の裏側にはこういった危険な食べ物を食べ続ける身体からのSOSを見過ごしてきた、一因もあることでしょう。健康な胎児をはぐくむ母体が間違った食べ物を食べないでいただきたいと心から思っています。

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